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ベルリン紀行(2) 投稿者:布施院(川井)  投稿日: 8月12日(火)13時29分08秒
肌で感じるといえば、乗換えでちょっと降り立ったスイスのZurichは摂氏35度で
うだるような暑さ。 ここ4週間ばかりこんな気候らしく、スイス人は夏スキーが
できない、氷河がなくなると大騒ぎでした。 ベルリンについてもやはり、昼間はうだるような暑さ、40度を越した日もあったようで、歴史的最高温度を記録。 でも湿気は少ないので、東京よりはよほど快適。 とくに夜は16-17度まで下がるので実に快適。
そとにでると鳥肌が立つぐらいすずしい。 ふと大学時代の哲学の教授から講義をうけたゲーテの哲学的な詩の一節を思い出していました。 正確な語句は覚えていないのですが、およそ次のようなものだったような気がします:

暑い夏の涼しい夜 一匹の蛾が闇に輝く炎の明かりをめがけて飛び立つ
こらえきれない衝動にかられて 近づいてはいけないという声を振り切って
燃える情念の炎に身を焼かれ 死して成れ を体現するために

特に最後のところはあやふやですが、暑い夏のすずしい夜、の一節がいまのように、昼間は35度を越す暑さなのに、夜は鳥肌が立つぐらいすずしい、 澄んだ空気が木々の臭いを運んでくるこんな夜のことだなぁと実感できるのです。涼しいというより寒いに近い感覚です。 そんな暑い真夏のすずしい夜にだれもいない公園でいい感じの女の子に初めて抱擁され、めちゃくちゃキスされちゃったりしたことがあったようななかったような、そのときの熱い唇とつめたい肌の感覚がよみがえるようなそうでないような、そんなことがむかーしあったようなないような、ことを思い出させるベルリンの暑い夏の涼しい夜です。
「死して成れ」は恐らく相当に深い意味合いの言葉だと思うのですが、前述の詩を今読み返してみるとなんとなく、身を切る思いで家族を捨て、社会から抹殺されるぞとの忠告も振り切り、今の家内との関係に飛び込んでしまった自分が、暑い夏のすずしい夜に飛び立った蛾のように思えてきます。 かのゲーテもそんな感情に近いものをもったのかもしれない。 若きウェルテルの悩みは状況としては彼女がすでに結婚していて子供いるという関係だったので、ずいぶんと違うけれども情念とモラルの間で苦しむ男の心情としては通じるものがあるなと、いつか自分を小説の主人公にしたてあげている布施院。 明日はベルリンに美術館を探しに行こう。 お目当てはドイツ表現主義からダダイズムまでだ。 George Grosz、ファイニンガー、Max Beckmann、 Otto Dix、Oscar Kokoschkaらにもし会えたら涙もんです。 夕方にはスイスだ。 仕事は?、新しい取引先との交渉は?、今日のところは順調。明日でる条件で契約を勧めるかどうかの決断をくだし、ビジネスとしてすすめられれば今回の旅行はおおいに元が取れたことになる。(布施院)

ベルリン紀行(1) 投稿者:布施院(川井)  投稿日: 8月12日(火)13時27分21秒
急にドイツにいくことにきめて10日にベルリンに到着しました。 はじめてベルリンを訪問したのは1969年ですからそれから34年たっています。 最後にいったのは1999年です。 壁と地雷でで東西に分断されていたBrandenburg門を歩いてあっけなく通過した時の奇妙な気持ちをおもいだします。 ここを通過できずにあきらめた人、通過しようとして殺された人、必死の逃避行に成功しても西側での生活についていけなかった人、
家族を、恋人を、友人を無理やり引き裂いた無情の壁は単に独裁的犯罪的政治家を保護
するものでしかなかった。 彼らの身を守るための密告制度で親子、兄弟、親戚、友人
、恋人間の信頼関係をこなごなに破壊し、人間性に関する基本的な不信感をうえつけて
しまった。 為政者が国民から信頼されていないことを自覚しているためである。

東西ドイツ統合の象徴ともなったブランデンブルグ門を西側からくぐり、当時の東側の
昔のMain StreetであるUnter den Linden(ウンターデンリンデン=菩提樹の下で)という名前の大通りに入る。 ここから昔のベルリンの中心地Alexander Platzまでおよそ2kmをゆっくりあるく。 まだまだ破壊され、修復されずにいる建造物が多く、町中大規模工事中である。 ベルリンのHauptbahnhof(ハウプトバーンホーフ=Main Railway Station)は列車は停車するが、乗降客もおらず、駅前はまだまっ平ら。東京駅から皇居が丸見えみたいな状況。 完成すれば美しいものに仕上がるとは思いますが、長い時間をかけた壮大は国の再生工事現場をみた思いです。 Unter den Lindenを東に進めば、プロイセン国立図書館、フンボルト大学、国立オペラハウス、圧政者からの犠牲者を弔う慰霊堂にはケーテコルヴィッツのピエタがかざられていた。 東独時代には東国兵がものものしく警備し、衛兵交代の儀式が見物人でいっぱいだった場所だった。たしか当時はナチの犠牲者を慰霊するとことだったはずだ。 ベルリンのドームがシュプレー河の向こうに堂々とした姿を現す。シュプレー河は行楽客をのせて行きかう遊覧船でいっぱいだ。 川沿いのテラス、や昔のビヤホールが復元されつつあるが、一歩裏通りに入ると戦後40年以上も共産主義独裁政治に翻弄された破壊された当時の大都市の惨めな姿がそこここに残っている。 直視に耐えがたいほどの崩壊振りだ。 ソ連の侵攻、占領から西側に逃れた人の空き家に住み込んだ、ポーランドに割譲されてしまった土地に住んでいた人たちが、東西統一後旧東ドイツに戻った人たちに立ち退きを要求され行き場所もない、あるいはもとの持ち主が
死に絶えたり、この大混乱を政治的にようやく決着をつけ、これから首都の再建築に向かおうとしているベルリンの姿は痛々しくも悲しいものがあるが、その息の長い、計画的なプロジェクトは残念ながら日本ではおよそ考えられないほど計画性と実行力に満ちている。
次の大地震が東京を襲ってもおそらく無秩序と混乱のなかから政府は何の対応もできないであろうといまから悲観的になります。おそらく、その場限りのおざなりな長期的視野をもたないその場限りの官僚のとってつけたような対応策しか出ないであろうと思います。
そういう目でベルリンをみるとこの国のもつ底力を肌で感じることができると思います。
(布施院)

訂正(言い訳と反省) 投稿者:レトロ(石川)  投稿日: 8月 9日(土)11時16分28秒
今日は大きな台風が、上陸して、外はとても風が強いです。
それにしても、今年は、日照時間が短くて、お米や他の作物の生育が
心配です。

カジッタさんも、町歩きがお好きなのですね。
どこかの町で、お会いしているかもしれません。

ところで、私の前回の「栄子さんへ」のなかで、栄子さんの言葉に
「いつか私もそこにいってみたい」を私は「言ってみたい」と書いてしまい
失礼致しました。小さい子供でも間違えないミスです。

一昨年の4月から、はじめたパソコンです。
一番は、入力した後、変換した文字が正しいか否か、入力直後、確かめない事。
二番目は、諸々の原因による視力の低下に加えて、このHPの始まる前から
インターネットを長時間見て、視力が低下したこと。それから投稿の際
Wordに書き溜め、それをHPに移行する方法を川井さんから教えて
頂きました。お蔭さまでとても便利です。
その時、フォントを10に設定していたので、字がよくみえませんでした。
今日は12に設定して入力していますがとても楽です。
それに加えて、私の性急的な性格も災いして、充分な再検?をしないで
投稿を押した途端、字が大きくなり、自分の字の誤りに驚くのです。
なんといっても、言い訳に過ぎず、私の不注意です。
私も気をつけますが、これからもこういう事がありましても、
勝手ですが、お見逃しください。
これからもよろしくお願い致します。

栄子さまへ 投稿者:レトロ(石川)  投稿日: 8月 8日(金)11時38分45秒
     ジャカランダ 栄子さま。  
いつもそちらからの通信、楽しみにしております。
さて、栄子さまの「いつか私もそこに言ってみたい」とかいてありますが、先日の
山梨の「清春白樺美術館」のことでしょうか?
そのアドレスは
http://www.yokogawa.co.jp/Measurement/Yamanashi/art/kiyoharu/kiyoharu.html
そしてKEEP財団のポール・ラッシュ氏は、清里を開拓し、聖路加病院の設立者から伝授された思想 [Do your best, and it must be first class.]の教えを守り、また、日本にはじめて
アメリカン・フットボールを普及させた人です。
http://www.keep.or.jp/shisetu/paul/ 

それとも谷中近辺の、朝倉彫塑館あたりのことでしょうか?
朝倉彫塑館のアドレスは、 http://www.taitocity.net/taito/asakura/ です。
その近辺の、谷中、根津、千駄木という観光書が見あたりません。多分「下町・・・」に
載っているのでしょう。しかしその地名の頭文字をとって、頁数の少ない、地域雑誌
『谷根千』が森まゆみさんの編集で発行されています。
http://www.yanesennet/mayumi/books/yanesen-adventure.html
著書は、「谷中スケッチブック」「不思議の町,根津」各々ちくま文庫、
「一葉の四季」岩波新書 等々沢山出版されています。

またイギリス人のジャーナリスト、桐谷エリザベスさんは、来日して20数年、日本の下町
根津が気にいり、画家の桐谷逸男さんと結婚して、いまだに、根津の長屋で暮らして
いるそうです。
http://www.yanesen.net/topic/2001/05.html
たしか朝日新聞にエッセィが、連載されていました。
また「消えゆく日本―ワタシの見た下町の心と技 丸善ブックス」
「下町いま・むかし‐消えゆく東京の人情と町並み」日貿出版。
「不便なことは素敵なこと」マガジンハウス。
これらは、私も読んで見たい本です。
日暮里、谷中から上野にかけての大きな下町マップも、本を読むようにわかりやすく、
おもしろく書いてあります。私の家はパソコンとプリンターの2つです。
栄子様の住所を私宛にメールを、くだされば、コピーをとってお送りします。
観光書の代わりにも、なるでしょう。
NHKのお昼の番組の下町紹介で、谷中の桜が有名なお寺から生中継のとき、NHKにどこをうつすのか聞いて友人と、追っかけをやりました。ミーハーでしょ。
その時の案内人が桐谷逸男さんで、
根津のツツジ祭の時、御夫婦で、出版した本を、売っていらっしゃいました。
よい本をみつけたら、またお知らせします。

本の話 投稿者:カジッタ  投稿日: 8月 8日(金)09時12分27秒
ジャカランダ栄子様
前回、稲ちゃんのお店でお会いして以来ですね。お元気の様子でなによりです。
私も町のあちこち歩き好きで、以前は散歩会というものに入っていて、色々なところを歩き回りました。町歩きの本はたくさん出版されていますが、今回はこの本をお知らせします。
谷中、根津、千駄木に地域が限定されますが、谷根千という小冊子が年に4冊出ています。ウェブサイトもありますので検索してみて下さい。結構内容があり、面白いと思います。

ロスの青い空、日本と違い湿気がないとか、東京は、毎日ジリジリ、ベトベトの暑さで寝苦しい夜が続いています。今日はテレビで台風のニュースが報じられています。




訂正 投稿者:ジャカランダ栄子  投稿日: 8月 7日(木)15時48分16秒
映画名の正しい英語は SEABISKET でなく SEABISCUIT でした。この間は風邪で仕事をやすんでいたのです。フセイン様どうして昔のことをよく細かくおぼえているのかと、かんしんさせられます。レトロ様いつか私もそこにいってみたい。引退したら日本のそういうところをぶらぶらしたいというのが私の夢です。この前は谷中千駄木のあたりをぶらぶらし、朝倉文男?彫塑館?にいきました。そうゆう案内のウェブサイト又は本があったらおしえてくださいますか?紀伊国屋、三省堂とか日本の本屋がこちらにもありますので、買い求めたいとおもいます。

私の家は DISNEY LAND と KNOTT’S BERRY FARM の近くです。旅行で近くにいらしたら、皆さん声をかけてください。




よろしくお願い致します。 投稿者:レトロIshikawa  投稿日: 8月 6日(水)14時35分01秒
ほわほわさんへのメールの戻りは、私がほわほわさんのメール・アドレスの間違いでした。
ほわほわさんには、ご心配おかけ致しました。

私事で何ですが、これから、私のハンドル・ネームをレトロIshikawa 改め レトロ に変えたいと思います。
当分のあいだ、レトロの隣に(石川)を、併記いたします。
よろしくお願い致します。

夏が来れば思い出す 投稿者:布施院(川井)  投稿日: 8月 6日(水)07時59分33秒
南千住5丁目の生家には中学一年の時まで住んでいました。まわりはどれも路地をはさんで平屋でしたが、うちの隣だけは大黒湯なる銭湯があって、煙突とか屋根にでも登れば両国の花火も見えたのでしょうが、そんなこともしなかったので見えませんでした。でも、当時は街の明かりもそれほどあかるくなく、両国の花火は南の空が明るく光ることでそれとわかったような記憶がありますが、定かではありません。 夏といえば回向院、骨道りの縁日を思い出します。 金魚すくい、りんごあめ、のしいか、いと昆布、将棋の勝負、布地のヤード売り(家に帰ってみると寸法が少ないことがよくあって、母はまただまされたとよく怒っていました)、ゆかたに下駄ばきの男の子、女の子、人の波、裸電球、カーバイドガスランプ、なかなか取れない景品の輪投げ、いんちきなおもちゃ、ひょっとこ、おかめのお面、はっかの味がするタバコのおもちゃ、ニッキ飴、相撲めん、スズムシなどの虫売り、綿菓子、風船、古本、工具、駄菓子。 お小遣いはそれほどもらえなかったので、買うことはほとんどなかったけれど、その人ごみのなかの年上の子供たちのゆかた姿などどことなく華やいだ下町の夏の情緒だったな。 縁日、お祭り、花火大会、家ではすいかなどが冷えていたりして。 布団をしいて蚊帳をはって、蚊取り線香をたいて、うちわで縁側ですずんで。 あのころはまだいろいろなセミも朝から、昼、夕方とないていたけど、いつごろかセミはなかなく、トンボも見なくなっていきました。 小学校の校庭で映画大会などがあって、板妻の無法松の一生とかチャップリンの短編無声映画などを見ました。 ラジオではヤンボーニンボートンボー、少年探偵団、赤胴鈴之助、トリローサンドイッチ。
テレビが南千住の駅前に置かれて、それと相前後して新し物好きの父が東芝製14インチモノクロテレビを買ったので、それからほどなく毎晩自宅が映画館で近所の子供らでいっぱいだったときもあります。 鳩が舞うイントロではじまるのはNHKだったか日本放送だったか。 金五郎、エノケン、馬琴、トニー谷から始まって、プロレス(力道山、遠藤幸吉、クルスカンプ、ユスフトルコ) 相撲実況放送(吉羽山、大内、鏡里、栃錦、若乃花、鶴ヶ峰)、野球試合(58年の巨人・西鉄の大対決)、一丁目一番地、バスどおり裏、私だけが知っている、月光仮面、スーパーマン、ロビンフッド、鉄腕アトム、鉄人28号、ヒッチコック劇場、パパはなんでもしっている、ルーシーショー、ペリーコモショー、三木のり平、てなもんや三度笠。 朝鮮動乱後の好景気以降、物質的、情報的に急速に豊かになり、変化も早くなり、それまでの小津安二郎的なゆったりとした時間の流れが終わってしまった。 いまは毎日時間がない。 親と話をする時間がない。 子供と遊ぶ時間がない。 夫婦で落ち着ける時間がない。 仕事をするにも一服する時間がない。 ああこれが人生かと悲嘆にくれる暇もない。 寝る時間もなくて毎日寝不足。 そしてある日突然やってくるその日。 いつしかはいくことにはなると聞き知ってはいたが、昨日今日とはおもわざりけり、とうたった昔の歌人の名前も歌も正確には思い出せませんが、そんな日がもうあまり遠い将来ではなく、それもかなりのスピードで近づいてきていることも思い出させる夏の盛りです。 やっと夏がきたらもうすぐ秋です。 どうせ死ぬなら春の弥生の桜の木の下で、とだれかが歌っていましたな、兼好法師。 

でも、秋がくれば、柿がおいしい。 梨もおいしい。 ぶどうもおいしい。 さんまもうまくなる。 さばも脂がのってくる。 新米がとれて、これがたまらんほどうまい。 新酒だヌーボーだ。 ビール祭りにワイン祭り。 涼しさが、薄ら寒くなるころ人恋しくなり、夏の思い出の歌がはやり、月見酒のあとは、クラス会だパーティーだと宴会場が取りにくくなる。 忘年会のはしごのあとは新年会がまっている。 お花見だ、ハイキングだ、海水浴だ、夏祭りだ、花火大会だ、で振り出しに戻る。 ああ、たのしい人生。(布施院)

略・りゃく・省略 投稿者:ほわほわ  投稿日: 8月 6日(水)01時52分37秒
ここのところ書けないでいます。
レトロさんの私宛のメールが「MAILER-DAEMONで戻ってきてしまいました」とのことですので気になっています。アドレスは以前と同じでしょうか?
他の方およびプロバイダからは7月31日と8月5日に届いています。この間は1通も来ていないので、時期的になにかプロバイダに問題があったのかどうか。レトロさん以外にもメールを下さって戻ってしまった方がなどいらっしゃるでしょうか?

私も見ていました。 投稿者:3B課長(山田)  投稿日: 8月 5日(火)23時09分50秒
30歳まで下谷神社の裏通り、神社から5件目(南稲荷町28番地)の実家に住んでいました。子供の頃我が家は、当時としては珍しい木造3階建て長屋で、近所の友達や大人たちと一緒に物干しに上がって、両国の花火を見ていました。さすがに仕掛け花火は見えませんでしたが、仕掛け花火の明るさに、白鴎高校の校舎がシルエットで浮かび上がったのを覚えています。今日ジャカランダさんの投稿を見て、台東区あたりの地図をひろげ、我家の在った位置と、白鴎高校を直線で結び、延長していくとその先に両国橋がありました。間違いなく同じ花火を見ていたようです。でも中学に進学した頃から大通りにビルが建ち始め、花火は見えなくなりました。その後しばらくして花火は中断されたようです。